万物の根源は自然であり、根源においてそれは不変である
夜迦村

何か足りないと感じたことは?何か…。それを感じることはできても、何もすることができない。単純に外と自分をシャットダウンしたり、花を摘んだり、空を眺めたり、鳥を眺めたりするようにはいかない。「もちろん、それは既にしたことだから…。」。それは本当?時間に追われること、10時間働くこと、家族が待っていること…意識していないのでは…。



庭に座って、靴を脱ぐ。裸足で芝の上を歩き、朝露に囲まれた朝食、鳥がさえずり緑も薫る。そんな体験は?健康に過ごすことは大切、心地よく過ごすこと…。それに気づく時があるはずだが、そんな人生の瞬間を逃し、全く気がつかない。
"老いずに過ごしたい、でも真実を生きずに老いていく"..
個人々々の精神の幻想は、人生の「私」の破壊された賜物である。真正というものは急きたてられない。静寂の中に、現在の真正が存在するものだ。

完璧に武装した侍(当時日本を駆け回っていた武士)が白隠禅師の元を訪れ、「師よ、質問がある…」と言った。「するがいい。」白隠禅師は応えた。すると侍は問うた。「いったい本当に天国はあるのか?地獄はあるのか?」白隠禅師はその侍を上から下まで見つめ、顔を歪めて言った。「ここに来て、そんなことを問うお前はいったい誰なのだ。」侍は応えた。「私は、天皇を護衛する侍だ。」白隠禅師は言った。「あり得るはずがない。お前はどうみても、乞食のようで、天皇がそんなお前を侍として認めるはずがない。」侍は叫んだ。「なんだと!」(当時の侍は侍として侮辱されることを恥とした。)侍は刀を抜き白隠禅師に斬りかかろうとした。白隠禅師は手を挙げ笑いながら静かに言った。「今、お前には地獄への門が開かれたのだ。」侍は我に返り、怒りと共に刀を鞘に収め、白隠禅師に深々と頭を垂れた。すると白隠禅師はこう言った。「天国への門は今開かれた。

これはほとんどの人間に起こりえる出来事で、パラダイスの創作物である、そして幾度も繰り返される。快適に、不満もなく、何一つ欠けることなく過ごしているが、突然理由もなく、消えないある記憶がよみがえる。それは感情の産物ともいえる連想で、憂鬱で攻撃的である。そして、それは自ら創りだした地獄である。一件何も変わらない、自らの中にだけ存在するものだから。自分の世界は自分を映し出している。



聖なる真正だけがニルバーナに導き、それ以外は幻影で、無駄である。なぜなら、偽の真実は何をするかそしてそれは欺瞞なのか、そんなことはどうでもいいからである。真正への路を探してほしい。欠損も争いもネガティブな影響から解き放たれているのだから。
"「根源の路を否定する者は皆、無の時の中で滅失してしまう。」と語られる"