潜在意識,

時間論理
夜迦村

職場に座る人、スポーツジムに通う人、休暇を取る人、子どもと家で過ごす人、病院に座る人、窓から外を眺め泣く人…。どうして繰り返されるのか?

時間論理
不条理な出来事にへそをまげ、一本のビールのために一本の煙草のために喧嘩が始まる。それが間違いなのか正しいのかと言う問題の前に、思考は無力である。今、たくさんの人がスピリチュアルなモノ、神秘的な何かを、意味もなく「本当」なのか「そうではないのか」を実践している。

でも、これはいったい何だろうか、ある理論が実際になったら、意味のないことが起こったら…。これは他の次元でも起こりえるのか?この悟りに近い境地は何かエネルギーなのだろうか?ということが疑問として湧き上がる。「どんなふうに私は生きているのだろう?」、「私は真実なのだろうか?」、「何が私の為に備えられているのか?」…鏡の前に立ち、鏡の中の自分を見ているとそんな疑問すら湧く。
しかしながら、目の前に論理と言うものが現象として現れると、そんな疑問も意味がなくなってしまう。



『生』というのは、そんな日常に気付きをもたらす注意深さの中に存在する意識であり思慮である。

思慮深さと粘り強さによって、生誕と死のサークルを突き破ることができ、至福の土地にたどり着くことができる。思慮深く生きることによって、自分自身は前進し、そうではないとどこにも進まない。

物質から本当にどれだけの喜びを得られる?世界のすべてが敢え無いもので存在していたとしても、その中から意味のある喜びを見いだせる?

あなたの中に存在する闇を手放して、光を求めよう。

悟りへの路上の小さな一歩は、世を掌握するということとして大きな価値がある。

仏の心あり

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過去の記憶

たくさんのレベルにおいて『存在している』と言うことを、意識的に感じ取ることができるなら、時間は永続するものだ。何故?どうして?だから…。この喜びの暗闇や深い悩みを持ってきたもの運命の原因の秘密がわかるのならば、この師なりをはかなり総体的である。過去の未来に取り組むことができ、現在の未来に生きることができるのならば、過去は全ての悟りへの路上となる。



混乱しないでほしい、物質への欲望におぼれないでほしい、静かに瞑想し幸福を求めてほしい。
最終的に霊性の道は高次の自由と苦しの終わりへと導くだろう。

仏の心あり